本多作左衛門重次という歴史人物をご存知でしょうか。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」というフレーズを聞くと知っているという方が多いのではないでしょうか。
今回、茨城県取手市にある県指定文化財(昭和9年指定)でもある『本多作左衛門重次墳墓』や、日本一短い手紙の碑をご紹介します。
①本多作左衛門重次墳墓
茨城県取手市台宿2-3167(常磐線取手駅 東口改札から徒歩15分程度)
※墳墓周辺には目印となる看板が設置されています。
②本願寺
茨城県取手市青柳1-1-57(常磐線取手駅 東口改札から徒歩20分程度)
※本記事は2024年5月現在のものとなります。
更新日: 2024年06月13日
【茨城県取手市】「日本一短い手紙」を書いた本多作左衛門重次の墳墓について
茨城県取手市にある『本多作左衛門重次墳墓』。本多作左衛門重次という人物像、日本一短い手紙と言われる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」に関して触れつつ、茨城県取手市との関連性について記事にしました。
※本多作左衛門重次(肖像画の提供元:茨城県取手市教育委員会)
本多作左衛門重次墳墓
本多作左衛門重次
本多作左衛門重次(1529-1596)は、室町時代(後期ごろ)から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、のちに江戸幕府を開いた徳川家康の重臣の一人です。
三河国(愛知県)の戦国武将として徳川家3代(松平清康、広忠、家康)に仕え、武将として、また行政面においても活躍した人物だったようです。また、勇猛果敢な性格でもあったため別名「鬼作左」とも言われていました。
本多作左衛門重次は、ある事件によって豊臣秀吉の不興をかったことで茨城県取手市の地に移り住み、生涯を閉じたことから『本多作左衛門重次墳墓』が建立されました。
この墳墓は、JR常磐線取手駅の東側エリアに位置し駅から約1キロの場所にあり、墳墓の周りは住宅街となっています。住宅街にある墳墓は一見すると誰のお墓か分からないかもしれません。
三河国(愛知県)の戦国武将として徳川家3代(松平清康、広忠、家康)に仕え、武将として、また行政面においても活躍した人物だったようです。また、勇猛果敢な性格でもあったため別名「鬼作左」とも言われていました。
本多作左衛門重次は、ある事件によって豊臣秀吉の不興をかったことで茨城県取手市の地に移り住み、生涯を閉じたことから『本多作左衛門重次墳墓』が建立されました。
この墳墓は、JR常磐線取手駅の東側エリアに位置し駅から約1キロの場所にあり、墳墓の周りは住宅街となっています。住宅街にある墳墓は一見すると誰のお墓か分からないかもしれません。
家族に宛てた日本一短い手紙
『本多作左衛門重次墳墓』を管理している「本願寺」の境内には本多作左衛門重次が家族に宛てた日本一短い手紙の文面を記した碑が設置されています。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、本多作左衛門重次が家族に宛てた日本一短い手紙と言われています。
4つの文で構成された手紙は、それぞれの文に妻に対する思いやりが深く詰まった内容のようです。
現代において、年賀状を含め手紙を送る機会が減っていますが、通信手段が限られていた時代において想いを相手に伝えるための短い一文は、受け取る側が様々な想いを馳せていたのはないでしょうか。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、本多作左衛門重次が家族に宛てた日本一短い手紙と言われています。
4つの文で構成された手紙は、それぞれの文に妻に対する思いやりが深く詰まった内容のようです。
現代において、年賀状を含め手紙を送る機会が減っていますが、通信手段が限られていた時代において想いを相手に伝えるための短い一文は、受け取る側が様々な想いを馳せていたのはないでしょうか。
茨城県指定文化財「本多作左衛門重次墳墓」で歴史を感じてみてはいかがでしょうか
茨城県取手市にある本多作左衛門重次墳墓について紹介させて頂きました。
旧水戸街道が通る茨城県取手市ですが、本多作左衛門重次が死去した後から現在に至るまで多くの人がこの墳墓を訪れているのではないでしょうか。
有名となった日本一短い手紙を書いた人物として日本各地また各記事等でその名を聞くことがあると思います。冒頭にも触れましたが、取手の本多作左衛門重次墳墓が茨城県指定文化財として大切に管理されていますので、今後も多くの方に当墳墓に訪れて頂きたいです。
旧水戸街道が通る茨城県取手市ですが、本多作左衛門重次が死去した後から現在に至るまで多くの人がこの墳墓を訪れているのではないでしょうか。
有名となった日本一短い手紙を書いた人物として日本各地また各記事等でその名を聞くことがあると思います。冒頭にも触れましたが、取手の本多作左衛門重次墳墓が茨城県指定文化財として大切に管理されていますので、今後も多くの方に当墳墓に訪れて頂きたいです。